月: 2016年11月

マザーガイアからの便り・予告編vol.8

マザーガイアからの便り・予告編vol.8

2016.11.26 マザーガイアからの便り・予告編vol.8

縄文(その3)・ブログ読者の方へのメッセージ

 

今回は、カンナ・カムイさんからの、読者の方々へのメッセージも含め、カンナさんとのQ&A方式でお届けします。

質問・キク: この便りは、決して面白半分で読んでみて、楽しい内容ではないと思っているのですが、どのような方々に向けて、またどのような目的で行われているのでしょうか。

 

その通りです。主に当時の我々部族の子孫の方々といいますか、なにか懐かしいものを感じる・・・という方が、それに魅せられ、読まれていると思います。

 

質問・キク:読んでいらっしゃる方々もまた、重要な役割をお持ちなのかと思うのですが。

 

その通りです。彼らは自分の役割を求めて生きております。懐かしいふるさとの何かに触れたような感覚が芽生えていると、わたしたちは確信しております。

 

 

あくまでも、人間と自然との本来の関係性、その付き合い方について、一般レベルでの認識の底上げをする、ということが我々の意図する課題です。

 

そして我々の子孫は、不屈の精神を持ち合わせていますので、そう簡単に諦め、撤退することはないのです。

 

なぜかと言うと、厳しいあの地で時に何度か転生もし、自然と生きる智慧を繰り返し学んでいったからなのです。

 

子孫というのは、肉体の子孫、そしてスピリットの子孫という広い意味で伝えています。

そして、この日本での我々の子孫というのは、本当に自然信仰(自然を尊ぶ心)が根底に根付いており、元来の性質として、他の生き物達と、自分達人間との隔たり(自然支配や人間優位の思考)をあまり感じないスピリットを持っています。

そのような認識が広がっていく、という事は、自然と共生していく土台作りになることで、世の中が良い方向にシフトする事にも繋がります。

我々の直系の子孫は、数多く発生しております。 約・・・そうですね、一万人から二万人はいるでしょう。そして、さらにその繋がりというと、さらに数は増えてまいります。

質問・キク:この通信は、主に子孫の方々に向けてメッセージを届けている、という意味があるのですね。

 

はい。目的はしっかりしております。

本来生命には隔たりがないということ、また、自然は我々にとって親のような存在であるということ、そして意図して繋がりを持つことが大切であること・・・そのようなスピリット(精神)を思い出すということです。

質問・キク:通信の大きな目的をうかがって、今日はとても有意義でした。

わたし達もいつ、この事をお伝えしようかと思っていました。これからも絶えず何度も繰り返して、自然にまつわる事、人間との関係性について伝えてまいります。

そして最後に、この言葉を付け加えたいと思います。

現代に生きていらっしゃる、この便りに興味を持たれ、懐かしい、憧れのような思いを感じる方々に伝えるメッセージです。

土に触れたり、または植物の先端の部分、花であったり枝であったり。そのような自然の一部に触れて、自分自身の本当に素直な部分に繋がれるように意図なさってみてください。

そのような日々の中で、ご自分の持っていらっしゃる、素晴らしい素質に出会う事でしょう。

我々はあなたがたをいつも思っております。そして愛しております。

物理的に何も出来ないわけではありません。
みなさんの心に触れる気持ち、理解する気持ちを持ってこちらから拝見しています。

マザーガイアからの便り・予告編vol.7

マザーガイアからの便り・予告編vol.7

2016.11.19 マザーガイアからの便り・予告編vol.7

「縄文(その2)自然信仰のはじまり」

こんにちは、カンナ・カムイです。
本日も、約6000年前に暮らしていた頃の生活様式を、一つの物語としてお伝えいたしましょう。わたくし、カンナ・カムイが暮らしていた頃からのお話、そして現在にもつながる話、この2つの構成でお答えしてまいります。本日もよろしくお願いいたします。

まずは、我々のほんの少し前の、祖先の方々の時代に遡った物語から、始めてまいります。自然の背後には、高尚なスピリットのような存在達が存在するという事を、まだ知らなかった時期の話です。

 わたしのおじいさんの代まで、つまりわたしの代からおよそ100年程度前に遡る話です。

我々が神官(人間と自然との橋渡しの役割)として、あらゆる情報を自然の中からいただくという形態をとるきっかけが芽生えたのは、おおよそ、わたしのおじいさんの頃からだと思います。この時点ではまだ、あくまできっかけということですけれども。

 それ以前までは、その日暮らしのような・・・自然や樹、生きものなどは、採取の対象物として以外の認識はしていませんでした。おじいさんの代は、意識転換の芽吹きとも言える時期であり、大きく変わったきっかけとなったのは、わたくしの父親の世代の頃の話でございます。

わたしの父親も、部族の中では、俗に言われる、神官とまでは言わないまでもそのような認識を持った人間だと理解されておりました。

その遺伝的な要素があり、のちにわたしも部族の神官としての役割を担っておりました。

父親の口伝えで話されたことの中に、このような物語がありました。その頃は本当に食べ物に苦労していました。現代で言うと、時期にすれば今で言う9月の頃の話でしょう。

ある年、実りが多かったはずなのですが、長雨の影響で多くの作物が途中でなくなってしまい「これから冬を越すのに、どのようにすればよいのか・・・」ということが、我々の部族の中で話し合われました。

 ひとつは、居住地を場所を移動するか、もう一つは、何か違う食べ物を探すか、あるいは、狩りをもっとしながら保存食を得るか・・・ついには山のバランスを崩すことも話し合われました。これは、例えばウサギだけ、同じ木の実だけなど、一つの種だけを大量に採って、その地域の山の生態系を変えてしまうよう事です。

その頃我々は、一つの種だけを乱獲すると、生態系のバランスが崩れることを、理解し始めていたのです。これは、種としての生存本能が関わる時、本能的に生態系全体のバランスを欠いてはいけない、という感覚が湧いてくるはずです。

自然界では皆その素質を身に付けております。野生動物であれば、自分の必要分だけを、自分の生存を脅かさない程度に採っていますね。現代の人間だけがそれを難しくしているのではないでしょうか。

このように、現代で言えば本当に計画的に、日々の生活を営んでいた我々の部族でした。

さて、その食糧難になってしまった年、山で食べ物を採取しながらわたしの父親である人物が、何を思ったか突然、大きな樹木の前で祈りを捧げたそうです。

「我々部族、この自然の恵みで命をつないで参りましたが、今年は本当にそれが厳しい状態におちいっております。どうか我々に、暖かくなる季節まで生き延びるための食糧を、どうぞお分けください・・・」というように、その大きな樹木に対して本当に真摯に祈ったそうです。

そして、現代の時間で申せば、1時間少し・・・いっ時、ふた時程度の時間が流れたのだと思います。その時、父親の頭の中にこのような言葉が浮かんだそうです。

それは「海沿いから歩いて行った、少し隔たった小高い丘の、老木の樹の下を掘っていきなさい」という内容でした。その言葉に藁にもすがるような形で、父親たちの部族はその言葉通りに、その小高い丘にある老木の根元を掘っていったそうです。

そこで現在の長イモのようなもの・・・イモですね。その下にイモがたくさん採取できたそうです。そのおかげで、我々の部族はその年の命をつなげた、そういった物語がありました。

それは真摯に祈り、ただ純粋に命を繋ぎたい・・・その思いが通じて、祈りの答えが自然界の神さまのような存在からもたされた、最初の出来事だったそうです。

 生き延びたい、これからこの部族の繁栄というものを未来永劫続けていきたい、という願いで起こったのが、自然信仰のはじまりでした。

とにかくその時から「自然の中には計り知れない、現在の言葉に変えるとすれば、何か法則のようなもの、そして意思のようなものがある・・・」と、我々部族の認識が芽生えたのです。

わたしのおじいさんの時代、当初の自然に対する認識としては、森や土や他の動物は採取するもの、食べるもので、その他に何かの働きがあるという事は、まだ毛頭も感じておりませんでした。

ですが、おじいさんの部族の長老のような方が、ある日突然、このようなことを言ったそうです。

「あまり自分たち勝手に作物を採取して計画性がないと、我々はそのうち滅びるかもしれない・・・」といったことを、皆で集まった時の話の中で、ボソリと伝えたそうです。

私のおじいさんの代のその頃から、自然にはもっと言い知れぬような、何かがあるのだ・・・という認識が芽生え初めてきた、そういった時期だったと思います。

それを実際に、自分たちが困った時に自然に対して真摯に祈り、いのちに繋げることが出来たというのは、先ほどお伝えしましたように、父親の代からです。

質問・キク:カンナさんの家系というのは、部族の中でどんな役割を担っていたのでしょうか。

 

部族の中で、当時はそれぞれ役割分担があったのです。狩りをするもの、森に入って食べ物を集めてくるものなどですね。

私の家系は、現代で分かりやすく言えばマネージャー的存在でした。それを管理するもの、という意味とは違います。当時は管理するという概念がなかったのです。

採取して来たものを、順序良く食べまわす、といった予定を組んだ者。そういった役割に近いでしょう。

 

質問・キク:自然とつながって伝える、神官という役割は、お父さんが初めて担って足がかりをつくり、部族の中で認識されるに至った、ということでしょうか。

 

そうですね。お父さんともう一人、他の家系の方で女性の方がいました。分かりやすく現代の言葉にすれば神官なのですけれども、当時の認識で申しますと、詳しく言えばこういったことです。

 何か他の見えない存在と繋がって、それを人々に伝えて導くもの、といった存在です。その「何か」が、自然に宿る神さま(スピリット)といった認識がまだなかったもので、我々よりはるかに大きなな存在、という認識のもとで、祈りを捧げ、言葉を戴き、それを理解するための修行を約10年位積みまして、そのような立場になれたということです。

質問・キク:神官という役割が住民の間で認識されたのは、カンナさんが初めてだったのでしょうか。

私の父親と、その他の方でも一部類似する行いをしておりました。しかし私は生まれた時から、そのような遺伝的要素があり、それを理解するといった要素があったため、わたしの代から本格的に、自然や樹、そのような見えないものからの言葉を口伝えで通すもの、伝えるもの、との位置づけとなりました。

 

それから100年、200年、300年後・・・と、少しづつ時間をかけて役割も認識も浸透していきました。三内丸山という遺跡がありますけれども、わたしの部族はその祖先となった部族だったということです。

そこから自然信仰が初めて芽生えたという事ですね。約6000年ちょっと前の話です。

そして、本日はこれを述べてから終了したいと思います。

この通信の中継局の役目を果たしておりました、ミズナラの樹はもう少しで、おそらく本日の通信でこの役目は終わるかと思います。

大地に帰る日がやってまいりました。最後に、このような役割を果たせたことに対して、ミズナラはとても満足しています。

マザーガイアからの便り・予告編vol.6

マザーガイアからの便り・予告編vol.6

 

2016.11.12 マザーガイアからの便り・予告編vol.6

「縄文(その1)」

わたくし、カンナ・カムイが暮らしていた頃、自分たちのことを、蝦夷(エミシ)ですとか、縄文、などとは分からず、後世の方々が伝えたことであって、今回のお話の中で、エミシや縄文という言葉は、出て来ることはないでしょうから、まずその事を先にお伝えしておきます。

 当時は、本当に厳しい自然環境の中、日々生きるために命がけの生活習慣の中で、ほんの少し楽しみがある、といった毎日でした。何から申せばいいのか・・・少し沈黙がありますがお待ちください。(約1分の沈黙)

それでは、印象深い出来事を一つ、ここでお伝えしましょう。

 当時は、軽装、軽い装備ということですね、現代に置き換えると・・・そういった装備で山に入って行ってもあまり、動物と鉢合わせになって争う、という事はありませんでした。

それはなぜかというと、当時は我々の部族の中でも、自分達も動物達も自然の一部だと多くの人間が認識していたため、人間以外の存在とも意識が通じやすい状態にありました。

意識が通じ合っている状態では、我々が行くような所に、現代で言われるイノシシのような大型の動物ですとか、熊のような動物と、ほぼ鉢合わせするということはないのです。

 それはなぜかと言うと、「我々は、これから山に入ります」ということで、山全体にご挨拶をする。そして、不要な鉢合わせや、争いがないように・・・ということを、意図しながら山に入りますので、事故や鉢合わせのようなことはあまり起こりませんでした。

それでも、この時間軸でいいますと、たまに年に2~3回はそういった出来事があり、悲しい結果になったことも、実際にあります。

 

 

そうですね・・・現代の人達からすれば、動物と心を通わせる・・・ですとか、想念のようなもので交流して、お互いに会わないようにする、などといったことは、なかなか考えにくいのかもしれません。

 けれども、我々の頃は日常的に行われておりました。なぜかというと、自分たちも自然の一部であって、動物たちも自然の一部、樹木もそう・・・

自然から育ってくるものは、すべてに重要な役割とそれぞれの繋がりがあるのだ、ということを我々は意識して生きてまいりました。

 今回のテーマである、縄文・第一回目の便りとして、当時の印象深い出来事をお伝えいたしました。

 なかなか動物とつながる、他の存在達とつながる、といった感覚は、現代の人達には、理解出来るようでようで、出来ないものかと思います。

 厳しい環境の中で、いわゆる死と隣り合わせ。そういった毎日を送っている人間や動物たちは、一種共通した認識をもっていると思いますので、より一層意識が繋がりやすくなってくるのだと思います。

 

現代はそういった生存に関わるストレスや、切羽詰まっている状態ということは、多くの場合ほぼありませんので、なかなか、そのようなことが分かりにくいのだと思います。ですので、このことを深くお話しするのは、次回以降に差し控えたいと思います。

マザーガイアからの便り・予告編vol.5

マザーガイアからの便り・予告編vol.5

 

2016.11.5 マザーガイアからの便り・予告編vol.5

「鳥」

約6000年前、わたくしカンナ・カムイが暮らしていた頃の話です。我々は、鳥は大空を滑空する、優美で神聖なもの、という位置づけでみておりました。

鳥の大きさの大小は関係なく、大きかろうが小さかろうが、空を滑空する、自由に羽ばたくその姿に見とれ、我々地上に存在しているものとは、あらゆる部分で違う存在だということを理解しておりました。

これは霊的(スピリット)なこと、物質的なこと、すべて含めた、私たちの鳥に対しての認識でした。

大きな鳥は、優美に羽ばたき、大空を飛び、ふつうの大きさの鳥たちは、自分らしくスイスイと飛んでいる姿、また、小鳥は、鳴き声に由来するような可愛らしい飛び方・・・我々は、澄み切った大空に彼らの姿を追っていたものです。

そして猛禽類は我々の時代、神官から見ても、生き物というカテゴリーを超越している存在でした。あの、威厳を放つような・・・2メートルを超える(翼を広げて)大きさ、そして近くで羽ばたく音を聞けば、我々を圧倒するような力強さ。

もうこれは紛れもなく、見えない世界、神の世界からやって来ているものだということを、我々はよく理解しておりました。

 他の大陸で、自然とつながった生活をしている方達も、同じような感性を持っていたはずです。

どの国に行っても、猛禽類、鷲、そういった大きな鳥たちを、神格化して取り扱っていたと、私たちは理解しております。

 

ここで我々神官の、当時の印象深い、鳥にまつわる物語をひとつ紹介いたします。これは春先のことでした。少し初夏に近づいた頃の、晴れた日の朝の出来事でした。

 一羽の大きな鳥が、我々の暮らしていた集落の周りを、今の時間軸で言えば・・・3時間ほどでしょうか。旋回しておりました。わたくしカンナ・カムイがなにを思ったか・・・

「これは何か意味があることであって、もしかしたら、空からの何か言づけがあるのかもしれない・・・」といった思いに駆られて、鳥とつながることを意識しながら、その大きな鳥と意識を合わせました。

しばらくして、このようなことが起きました。その鳥は「海の方に何かあるから、行ってごらんなさい」という、思いを伝えてきました。

私たちは、海の方に向かい・・・当時私たちが住んでいたのは、海にほど近い小高い丘だったのです。海の方に向かい、なんだろう、と思いながら鳥が指し示す方向に向かって行きました。

 

そこには、見たことがない小さな、いかだのような船が流れ着いておりました。どこかの国からやって来たと思われる、我々と少し雰囲気が違う女性の方と、年をめされた、おじいさんのような方がいらっしゃいました。

言葉も通じず、ただ向かい合って意識を交換していましたが、やがて、彼らは疲れ果てたのでしょう。その場で息を引き取りました。

そこで我々は、「ああ、このように違う外見を持った、我々とは違った人間がいるのだな」ということを初めて理解いたしました。

髪の毛は茶色く、肌の色は透き通ったような、なんでしょう・・・白ではないですけども・・・今で言えばどこの国の方かは分かりません。そのような出来事がありました。

鳥は、そういったことも我々に知らせてくれた出来事が、その一度だけありました。これは我々が遭遇した、鳥にまつわる事件というか、出来事でした。

そして、現代の人達にも通じるような物語を、いくつか紹介いたしましょう。

それは神事にまつわるようなことではなく、我々の生活に、収穫の喜び、そういった喜びをあらわす、といった、お祭りに近い原型の話です。それに、小さな小鳩のような鳥が関係しているという事を、1つのエピソードとしてお伝えいたします。

秋の終わり頃、収穫の時期にさしかかり、私たちの集落では、穀物を集めに山や森に出掛けながら、海に魚を採りに行きながら、長い冬を越すために沢山の食糧を確保しておりました。

そこに、鳩のように小さな…今で言う山鳩ですね。そのような小さな鳥がやって来て、我々の前に飛び立ち、踊りを踊っているように、こう、チョコチョコ、チョコチョコ、といった仕草を見せて、我々を楽しませておりました。

我々もそれを見て、日々のつらい農作業や、採取などの重労働を少し和らげてくれるような・・・その鳥は、私達の目を楽しませてくれて、心の中を潤してくれました。

 

これが、我々のお祭りの原型に由来するものです。

我々もその鳥のように、手を前に出したり足を左右に出しながら、行動を真似しておりました。それが我々の踊りの原型だったと認識しております。

 このように、お祭りといわれる収穫の喜びをかみしめるために、鳥は我々に体を動かして楽しむ、とうことを教えてくれたエピソードがありました。

 我々はその鳥から、そのように体を動かすこと、体で物事を表現することを覚えました。今から約6000年前の話でございますが・・・

そのようなこともありまして、その年から毎年毎年、収穫の喜びや、何かをお祝いするような時には、そのように体で表現することを覚え、それを発展させて代々受け継いでいったものが、東北地方のお祭りの原型になった、と今ここで現代に生きる方にお伝えいたします。

当時の小型の鳥でも、いまで言う種類と言われても、思うように該当するものがないと思いますが、ただ、色彩は3色ほどあったように思います。

鳥の羽を真似て、我々の祭壇を作ったこともありました。色彩を真似て、藁でよじりながら模様を作っておりました。あの模様は、鳥の縦に通っている模様と、横に通っている模様を真似て作ったものです。

 その中にわたしたちは感謝の気持ち、目には見えないものに通じているという気持ちを表して、当時の穀物を入れる器などに模様をつけて、楽しんでおりました。

 ここで我々の印象深い、現代でも通じるようなエピソードをお伝えしたいと思います。

 山や森などに出入りしていると、鳥と交流するために、鳥の鳴き声を真似する人間が現れてきました。それは鳥と行動と共にする、鳥を森の中での友だちとする、といった、共通の生き物として交流するといった思いがそうさせたのでしょう。

子どもの・・・主に女の子ですね。そういった子ども達は、よく鳥の鳴き声を真似して、鳥と仲良く遊んでいました・・・我々の時代にはそのような遊びをしていました。

今でも、約6000年前の我々の世界でも、子どもというものは、自然の存在と遊ぶこと、つながることを楽しみとしていました。

それが遊びへと発展していき、幼い心ながら、自然とはどういったものなのか、そして自然と暮らすということの意味合いを、子ども達なりに分かっていたことでしょう。

また我々大人も、小さな子ども達の問いかけには、これまでの経験上の知っていることをよく言って聞かせたものです。

それが、当時の人間と鳥との関係性でした。

 

そして最後に、今を生きる、鳥を愛する、動物を愛する方々へ、メッセージです。ぜひ自然の濃い、林や山や、川がある場所行くときは、そこに住んでいる小鳥達にも意識を向けてください。

昔も今も変わらず、鳥達は言葉として、私達に何かを投げかけてきております。

美しい感性と洞察力をもってすれば、鳥達は心を許して美しい声を聴かせ、そしてその美しい声の中に隠れているメッセージがあることを、理解するでしょう。

そのように聴いていただければ、今後、小鳥や中型の鳥達との関係性も改善され、より楽しいものになってゆくことでしょう。

どうぞ、意識を向けてください。語ってください。聴いてください。今日はありがとうございました。